塩次 伸二氏(しおつぐ・しんじ)氏が19日午前0時20分、心不全のため栃木県佐野市の病院で死去、57歳。福岡県出身。
葬儀・告別式は21日午前9時から栃木県佐野市富岡町184の1、セレモニーホール佐野東で。喪主は兄泰久(やすひさ)氏。
18日に佐野市で予定していたライブの前に、体調が急変して病院に運ばれたが治療も虚しくそのままに死亡された。
私がまだ、20代の時に音楽好きな兄が持っていた“ウエスト・ロード・ブルース・バンド”のレコードで彼、塩次氏の存在を知り、以後私のブルース愛好が始まりました。
塩次氏を最初に見たのは私が20代で京都のライブハウス拾得だった。
その後は日比谷野音や下北沢などのライブハウスなどや野外フェスなど5〜6回は彼の
ギター演奏を生で見た記憶がある。
その後私は黒人の本物のブルースへと嗜好が向かい塩次氏の存在は記事などで見る
ことぐらいでしたが彼の存在が大きくブルースという音楽愛好するキッカケであった。
年齢的にもまだまだこれから活躍出来ると思うと残念です。
このブログでも1度彼の写真を紹介しているが改めてその写真をご紹介します。
もう30年ぐらい前に撮影したので塩次氏がまだ若いですね。
塩次伸二プロフィール
1951年福岡県に生まれる。
'71年京都にて“ウエスト・ロード・ブルース・バンド”結成。
'72年のB.B.キング大阪公演のオープニング・アクトを始めとし、精力的な活動で一躍日本中にブルース・ブームを巻き起こす。
同時にバーボン・レコードより『ブルース・パワー』('74年)、『ライヴ・イン・京都』('75年)などのアルバムをリリース、ブルース・ミュージックに対する深い造詣とフィーリングに満ちたプレイに高い評価が集まる。'75年ウエスト・ロード・ブルース・バンド脱退。ソロ活動に入る。
“しいちゃんブラザーズ”、“ダウンホーマーズ”などへの参加を始め、'79年の渡米では、サンフランシスコ・ブルース・フェスティバルにも出演、地元音楽誌の賞賛を受ける。さらにジャンルを越えたさまざまなアーティストとのレコーディング、セッション等
に数多く参加。
深いブルース・フィーリングに対する信頼は厚く、国内アーティストのみならず、故バレリー・ウィントン、シル・ジョンスン、エディ・クリア・ウォーターなど海外のアーティストからも絶対の信頼と評価を得る。
'87年初のソロ・シングル『ビッグ・タウン・ブルー』をリリース。
さらに'90年のネルソン・マンデラ氏来日歓迎コンサートでは音楽制作監督を務めるなど、演奏活動だけではない幅広い活動を展開。
'91年より自身のリーダーズ・セッションである“ブルース・オン・ザ・コーナー”をスタート。
ブルージーかつジャージーなサウンドで独自のスタイルを確立。'93年初のリーダーズ・アルバムである『クッキング・ウィズB-3』をリリース。チャールズ・アーランドと共演。
'94年水越恵子『ザ・スケッチ・オブ・ア・ウーマン』にサウンド・プロデューサー、アレンジャーとして全面的に参加、ジャンルの枠に捕われることのない深い音楽性が高い評価を得る。
'95年『WESTROAD BLUES BAND LIVE IN NEW YORK』 、
'96年『BLACK MUSIC FROM JIROKICHI』 をリリース。
'98年にはTV番組「神々の宴」でB.B.Kingと共演する。
'99年バーナード・パーディーのエディュケーショナル・コンサートにミュージシャンの強い要望により参加。
2000年、崔洋一監督の出演するNHKの番組「古都が生んだブルース」に70年代ブルースの立て役者として出演。
現在は、ポール・ジャクソン(B)、マ−ティー・ブレイシー(Dr)、小島良喜(P)のメンバーでBAD BOYS BLUES BANDをはじめとし、自身のセッション・バンド“ブルース・アンボセリ”のリーダーとして、さまざまな活動を展開。
活動の幅をさらに広げつつも、自身のルーツであるブルース・ミュージックに常にこだわり、『現在』のブルースをプレイし続ける彼の今後には一層の期待が集まっていた。